歴史からひもとくピラティスメソッドの本質

ピラティスの基礎

こんにちは!

JR板橋駅パーソナルピラティススタジオ リアライズの
田村めぐみです!

「私の考えは50年早かった」

ピラティスメソッドの創始者である、
Joseph.H.Pilates氏がこの世を去ってから50年もの月日が経過しました

「100年メソッド」と呼ばれるほど昔から受け継がれているピラティスメソッド

100年経っても色あせないどころか、現在はメディアや書籍を通して益々の広がりを見せています

ピラティスメソッドはどのようにしてつくられたのか?

そして、ピラティスメソッドはどのように広まったのか?

今回は、歴史からそれらを紐解いてまいります・・・

ピラティスメソッドの成り立ち

「弱み」を「強み」へ変えた幼少期

1883年12月9日(日本では明治16年)
ドイツのメンヒェングラードバッハ(デュッセルドルフ近くの小さな町)にて誕生

もともと幼少期は病弱で、くる病やリウマチ熱、喘息などいくつかの病気を患っていました

そしてそれらを克服するために、果てしなく続く「心と身体」の探求の旅が始まります

ピラティス氏は丈夫で健康な身体になることを強く望みました

街にあったスポーツセンターにて体操やスキー、ボディビルディング、ボクシング、レスリングなどあらゆる身体訓練にはげみ、鍛錬を重ねました

そうして鍛錬を重ねていくうちに、14歳になる頃には解剖図のモデルになる程身体は鍛え上げられ、発達を遂げていきました

お父さんが受賞歴があるほどの体操選手、お母さんが自然療法士だったことも影響を受けていたと考えられています(街にあったスポーツセンターは、お父さんが勤めていたという説もあります)

ピラティス氏は、西洋と東洋両方のトレーニングを研究していた中で、特に心と身体を完成させそれを維持するという古代ギリシャローマの哲学にたくさん触発されたそうです

イギリスで訪れた転機〜第一次世界大戦〜

1912年、弟と共にイギリスへ

仕事の内容は定かではありませんが、ボクシングのツアー帯同やサーカス団員として生計を立てるため、など諸説あります

1914年、第一次世界大戦が勃発

「敵国人」とみなされ、捕虜となり収容所に抑留されてしまいます

抑留されている間、仲間の捕虜へ自身が開発していたプログラムを伝えはじめ、自らの考えを精錬させていくと共に、負傷からの回復の手助けをしていました

ベッドからスプリングを取り出して、寝たきりの患者のためにエクササイズ用の器具を開発しました

これはピラティス氏が最初に開発した器具であり、後に”キャデラック(現在の正式名称はトラピーズテーブル)”と呼ばれるようになったピラティス専用器具の基盤となりました

それ以外にも、今では有名となったピラティス専用器具の多くをここで作り上げていきました

これは後にコントロロジー(今で言うピラティスメソッド)と呼ばれる身体調整法のはじまりとなりました

コントロロジー(Contrologyとは
コントロール(Control)とロジー(Logy)という言葉を組み合わせたいわゆる”造語”「コントロールの学問」

ピラティス氏はコントロロジー(今で言うピラティスメソッド)のことを
「頭と身体、精神の完全なる調和を目指すもの」と定義されていました

1918年、世界的にインフルエンザが大流行

戦争よりも多くの命を奪ったとされていました

しかし、ピラティス氏が教えるエクササイズを続けていた人々は、誰一人としてインフルエンザで命を落とすことはありませんでした

この事実は、ピラティス氏が考えたメソッドが有効であると言う、最初の証拠となりました

ピラティスメソッドの発展

終戦後、ドイツへ帰国

ドイツ政府から新しい軍の訓練を頼まれたが、当時のドイツの政治的傾向を好まず、また戦いのために人を訓練する意欲がわかなかったため、祖国であるドイツを去り、アメリカへ移民することを決意しました

ボクシングの専門家であるナット・フライシャー氏(アメリカ人)やボクシングのベビー級世界チャンピオンとなったマックス・シュメリング氏(ドイツ人)が渡米への背中を押したと言われています

アメリカへ向かう船の中でピラティス氏は、将来のパートナーとなるクララ・ゾイナー氏と出会います(ピラティス氏はドイツで2回結婚していたと言う説があり、2人は正式な夫婦ではなかったと言われています)

1926年、ピラティス氏とクララ氏は、ニューヨークへ到着

8番街の939番地にスタジオを開設(ピラティス氏はジムと呼んでいました)

同じビルの中に、ニューヨーク・シティ・バレエ団などのダンススタジオやリハーサルスペースがあり、そのロケーションダンサーにとってコントロロジーが身近なものとなりました

うわさは口伝えに広まり、その顧客は上流階級の人々や映画スター、医師、音楽家、サーカスの芸人など多岐に渡りました

ニューヨーク・シティ・バレエ団の創設者となったジョージ・バランシンは、コントロロジーの重要性に気づき、トレーニングとリハビリのために教え子のダンサー達をピラティス氏のところへ送り出したことから、ダンサー達の間で急速に広まったとされています

そのダンサー達の中には、後に”ファースト・ジェネレーション・ティーチャー(第一世代。ピラティス氏に直接習った先生)”と呼ばれる方々(キャシー・グラント、カローラ・トリエー、イブ・ジェントリー、ロン・フレッチャー、ロマーナ・クリザノウスカ、ブルース・キング、ロリータ・サン・ミゲル、ボブ・シード、メアリー・ボーエン)もいました

ピラティス氏の思い〜コントロロジーを医療と教育のスタンダードへ〜

ジョセフ・ピラティス氏は、生涯で2冊の本を出版されています

「ユア・ヘルス」
「リターン・トゥ・ライフ・スルー・コントロロジー」

書籍を通して、自身の信念やメソッドの裏側にある原則、実践としてマットで行うエクササイズなどを紹介されました

コントロロジーを、人類の健康を健康を変えうるメソッドとして、自身の考えやエクササイズを目に見えるように残したのです

ピラティス氏は、自身のメソッドを学校教育や医療現場での主流に採用されることを強く望みました

マンハッタンにあるレノックスヒル病院で整形外科医局長を勤めていたヘンリー・ジョーダン医師は、コントロロジーの熱心な支持者でした

彼の患者の多くをピラティス氏の元へ送り込み、それにより手術を回避できたことも頻繁にあったと言われています

兼ねてより医療現場での導入を願い熱心に働きかけましたが、ピラティス氏に正式な医療資格がないことなどから、コントロロジーは医療や教育の現場で採用されることはありませんでした

このことにピラティス氏も深く落胆したと言われています

コントロロジーのその後〜現在のピラティスメソッドの発展

1967年、80代のほとんどを研究と指導に費やしたジョセフ・ピラティス氏は、86歳でこの世を去る

その生涯を終える寸前まで、あらゆるエクササイズができたと言われています

ロマーナ・クリザノウスカ氏(ファースト・ジェネレーション・ティーチャーの1人)がピラティス氏のスタジオを引き継ぎ、クララ氏とともに運営を続けました

1971年、ロン・フレッチャー氏(ファースト・ジェネレーション・ティーチャーの1人)がビバリーヒルズにスタジオを開設。多くのハリウッドセレブリティをはじめとする顧客を集め人気となり、メディアでの注目を集めました

1980年代後半〜90年代にかけて、ピラティスはブームとなり一般社会に受け入れられ、次第にアメリカ各地に浸透、海外へも急速に広まり始めました

その頃、”ピラティス”という言葉を商標登録するか否かで訴訟が起こり、ある流派の指導者以外は”ピラティス”という言葉の使用を禁止されてしまいます

2000年、ピラティスの器具を製造しているKen Endelman氏が商標登録を取り消すために奔走、裁判所の判決により商標登録はキャンセルとなりました

日本の大手フィットネスクラブにてピラティスが導入され始めたのもこの頃かと記憶しています

”ピラティス”は普通名詞となり、この出来事でインストラクター達は一致団結し、アメリカではフィジカル・フィットネスの必要性が強調されるようになっていたため、ピラティスメソッドは瞬く間に大流行となりました

フィットネスのトレンドチャートのトップに数年間君臨し続け、あらゆるフィットネスクラブではマットクラスが行われ、スタジオスケジュールのメインプログラムとなりました

運動療法としてのピラティス

現在ピラティスは、フィットネスとしての人気は下降気味ではあるものの、クリニックでのリハビリテーションやスポーツの現場においては、機能的動作の構築手段として注目されつつあり、様々なエリートアスリートの重要なトレーニング方法の一つとなっています

現在では、PMA®︎(Pilates Method Alliance®︎)というアメリカ政府公認のピラティス団体によって、ジョセフ・ピラティス氏とクララ・ピラティス氏が築き上げてきたものが伝統的に継承され、メソッドの質の維持向上に貢献されています

※PMA®︎(Pilates Method Alliance®︎)は、世界中の数あるピラティス団体を統括し、”ピラティス”というメソッドの基準をつくっている団体です

日本でも近年、フィットネスのみならず、医療系国家資格(あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師、柔道整復師、理学療法士等)を保有している人やアスレティックトレーナーの資格を保有している人などがピラティスインストラクターの資格を取得し、クリニックなどのリハビリの一環として取り入れられたり、アスリートのコンディショニングをサポートする手段として、ピラティスが取り入れられることが増えてきました

2016年8月には、「臨床スポーツ医学」という専門誌にてピラティスの特集がされ、瞬く間に売り切れが続出しました

医療やスポーツの現場において”ピラティス”が注目され始めている、ということがうかがえる出来事でした

それを受けて、2017年11月、「運動療法としてのピラティスメソッド」という書籍が発売、こちらも発売前からamazonではベストセラーとなっていたほどでした

ある専門学校では、年間を通してピラティスの授業が始まるそうです

「私の考えは50年早かった」

生前、ピラティス氏が残された言葉です

ジョセフ・ピラティス氏が生前に願っていた、医療と教育の現場での採用が、50年以上の時を経て実現され始めています

「すべての新しい考え(アイデア)は革命的であり、その理論が正しいと実践を持って証明されたなら、それが発展し繁栄するのは単に時間の問題である。

そのような革命的なアイデアを人は無視することはできない。それは人の目を引かずにはいないのだ」

Joseph.Hubertus.Pilates

 

ピラティスをお伝えしている立場としては、これから益々真価が問われる時代となりそうですが、だからこそいつでも本質をお伝えできる指導者であるように、これからも大切にお伝えして行きます

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投稿者プロフィール

田村 恵美
田村 恵美
国家資格を有するピラティスのマスタートレーナー
身体機能改善とパフォーマンスアップに定評のある『PHIピラティス』をベースとしたオーダーメイドのマシンピラティス・パーソナルトレーニング指導を得意としております
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